●昭和38年(1963年)度 定数20 町議会議員選挙 初の日本共産党公認候補として、伊勢原町議会選挙に田中秋好氏が立候補した。(10票差の次々点)
●昭和42年(1967年)度 定数20 町議会議員選挙 大庭豊氏が当選(第15位、632票)、共産党として初議席を得た。 大庭豊氏の公約は、@町費のムダづかいを絶対しない。A議会の民主化とガラスばりの運営。そのため
に町政新聞「新いせはら」を発行して、全町民に定期的に議会報告をする。B歳費の値上げに反対する。
C町民要求を実現するだった。
働くお母さんたちが1年かけて「背中に赤子、片手に幼児、片手に署名用紙」と足を棒にして集めた1069
名の公立の保育所をつくって欲しい」という署名を集め、その力が45年4月の中央保育園開園となった。
●昭和46年(1971年)度 定数20 市議会議員選挙
共産党の議員が2人になれば「1+1=2」ではなく「2×2=4以上」の力になると、大庭豊町会議員・酒井
邦男氏が立候補し、2名の議員団を確立。0歳児と70歳以上の医療費の無料化を実現。「義務教育は公
費で」と、PTA会費から学校援助費が30%出されていることや運動会・卒業式などの寄付金の廃止を求
めた。また、父母によるトイレの清掃を中止させ、清掃は市費負担とさせた。それらの実現と議会での追及
の力は議員団の議会全体の3割を超える発言数がある。
共産党は何でも反対する党ではない。市民のためになること(市長提案では60%)には賛成している。
伊勢原町は昭和46年3月1日、市制を施行し、県内で15番目の市となった。
●昭和50年(1975年)度 定数28 市議会議員選挙
2議席から3議席にチャレンジ。市の人口も増えて議員定数も4名増となり、大庭豊市議・酒井邦男市議・
勝又敦子氏が立候補したが、残念ながら大庭氏が落選し、2名となった。勝又敦子氏は伊勢原市議会初
の女性議員となり、子育て中の母親の「声と台所の声」を、市政に反映させていった。
桜台小分離校(現竹園小)開設で、伊勢原自動車学校跡地を買収(5億8500万円)、伊勢原自動車学校
の移転と雇用を確保させた。
●昭和54年(1979年)度 定数28 市議会議員選挙
3議席に再度チャレンジ。大庭豊氏が返り咲き,初の3名の議員団を確立。人口急増による分離校などの
教育環境整備と遅れている福祉増進に働く。山王・伊勢原中学校の分離校計画用地として、板戸地域に
候補地が設定されていたが、議会への報告と同時に地権者から反対陳情が出され、共産党議員団は地
権者の意見を聞いたうえで議会で取り上げ、一緒に交渉を重ねた。
寝たきり老人のために、移動入浴車、理髪サービス、電話設置介護人の派遣、寝たきり65歳以上の鍼
灸・マッサージ無料化を実現させた。(年6回、出張治療も含)
●昭和58年(1983年) 定数28 市議会議員選挙
引き続きの酒井・勝又・大庭の3議席で、さらに市民要求実現へ。
学童保育は、岡崎で市内の父母が30名近い児童を対象に学童保育を実施していた。県下19市中、未
実施の学童保育設置を求める市民6000名の請願を、社会・公明・民社・新政会・大政会が不採択にした。
また、「核兵器廃絶平和都市宣言」を求める7704名の陳情も、公明・保守・明政会が不採択にした。
雇用では、日本アルミ住宅建材鰍フ工場閉鎖が出され、働く人の生活・雇用を守れ(約300人)の運動。
市の誘致企業の日本アルミ閉鎖移転に対する労働者の権利を守る闘いや、以後の山武ハネウエル労働
者の思想・賃金差別に対する「労働者の生活と権利を守る闘い」を議会で取り上げ、行政への陳情なども
一緒に行った。
●昭和62年(1987年)度 定数28 市議会議員選挙
革新勢力の上げ潮の勢いと、4常任委員会に全共産党議員が必要と、大庭豊市会議員・酒井邦男市会
議員・勝又敦子市会議員・笠原国昭氏の4名が立候補して、強力な議員団樹立を目指したが、大庭氏と
笠原氏の2名は落選し、1名減の2名の議員団となった。しかし、ワンマン体制を敷く永井市長と対決し、
「燃えるごみを今日も出せる」と、可燃ごみの週3回化と、燃えないごみの月2回への道を開いた。また、
「友好姉妹都市ラミラダ市」の訪米の帰途中にハワイに立ち寄ったことは、観光旅行で1千万円のムダづ
かいであると追求し、返済を要求して闘った。
翌63年9月には、市長選挙と市会議員補欠選挙が行われ、市会議員補欠選挙には大庭豊氏が市長選
挙には笠原国昭氏が立候補し、永井市長と対決し善戦(得票率=25.13%)したが残念ながら、それぞれ
当選には及ばなかった。
市会議員補欠選挙にかかわって、保守系の予定候補者が殺人事件を引き起こしたために立候補できず
に別の保守系の候補者が代わって出馬し、当選した。
●平成3年(1991年)度 定数28 市議会議員選挙
酒井邦男市会議員から笠原国昭氏へ交替を行い、大庭豊氏も当選して、3名の議員団を確立した。この
ときの総得票数4001票は、これまでの最高得票数。
保護者が自主的に開設してきた学童保育に対して、「絶対に学童保育はやらないでくれ」と厚木市に要請
していた永井市長を実施に踏み切らせた力は2度目の3議席の実現だった。※学童保育は10月からスタート
この4年間では、伊勢原駅北口再開発、区画整理事業、マンション建設、日本ロジテム倉庫建設、第2東名
高速・国道246号バイパス建設、平和都市宣言、東名拡幅に伴う側道問題など計画の対して住民同意を貫
くよう追及し、住民運動を支援してきた。
また、「非核平和都市宣言」を求める陳情を、個別の宣言はつくらないと拒み続けてきた市長とオール与党
議員たちは日本共産党に点数を稼がせるなと、市民の願いを門前払いしてきた。しかし「核兵器廃絶と平和
を願う」市民運動の前に、県下19市中の最後にはなったが、実現した。
●平成7年(1995年)度 定数26 市議会議員選挙
堀江市長による「目の上のたんこぶ」の共産党議席を減らしたいという策動もあり、定数2名削減されたが、
引き続き3名の議員団を確立した。
伊勢原駅北口再開発、太田地区農業改善事業、マンション建設問題などに取り組み、登記所廃止撤回、
八幡谷戸の土地利用、消費税減税、有料246バイパス・第2東名反対などの住民運動、また生活・法律相談
などを行ってきた。
堀江市政は平成8年度に、窓口手数料、鈴川公園使用料、粗大ゴミ・学童保育の有料化で市民生活の負担
を増やし、さらに針灸マッサージ、在宅寝たきり・痴呆性老人の介護手当、母子・父子家庭激励事業などの福
祉事業の廃止・予算削減を行った。
また平成8年9月、大型事業を優先し、市民の福祉を切り捨てた堀江市政に対して、市民と共に酒井邦男候
補を擁立し市長選挙を闘ったが、堀江市長の再選をとめることはできなかった。
●平成11年(1999年)度 定数24 市議会議員選挙
勝又敦子市会議員から小林京子氏への引継ぎ。定数2名減が重なり、厳しい選挙となった。笠原国昭市会
議員、小林京子氏の2名が当選。大庭豊氏の落選で、1名減の議員団となった。
3名から2名になった議員団は「唯一の野党」として、堀江市政の「物言わぬ与党」が占める中、議会運営委
員会に少数意見を反映させるため、会派構成人数を3名から2名に改めさせて、少数意見が議会運営に反映
できるようにした。また、3歳児までの医療費無料化、県営住宅の減免制度を活用で、市民の暮らしを守った。
さらに、小稲葉地域では黄金橋付近のフェンス、市道63号線にガードレール設置、堰の改善などに取り組み
保守的な農村地域でも、今までは共産党と言うと「自分たちとは別世界の人たち」と思われていたのが「何だ
普通の人」と認識され「ちょっと相談してみよう」になり「共産党だってなんだっていい、やってくれれば」
に変わり、地元から「共産党だから安心して任せられる。共産党がんばれ」と信頼されるまでに変わるという
新しい局面を切り開いた。
また伊勢原市は伊勢原駅北口再開発事業をこれ以上進めることはできないので「凍結」という結論を出した。
●平成15年(2003年)度 定数24 市議会議員選挙
定数削減の陳情が出されたが、24名を条例化した定数で一度も選挙を行っていないと全会派一致で陳情を
不採択にし、選挙実施。大庭豊氏が復活当選し、3名の議員団を確立した。
市長選挙では、4選を目指した堀江市長が長塚氏に変わったが、伊勢原駅自由通路整備、第2焼却場設置
に伴う伊勢原市・秦野市への個別のし尿処理場建設など前市長の施策を引き継ぎ、福祉を切り捨て、市民の
負担をしいた。そのうえ、旧第二庁舎跡地売却を盛り込んだ予算が2度の否決や福祉をもとに戻せという附帯
決議が可決され、議会が監視役を果たした。
「市の玄関をつくる」という小田急奉仕の伊勢原駅自由通路整備事業。共産党議員団は、「小田急との交渉」
を要求し、総事業費14億円のうち、伊勢原市が11億円を負担、小田急負担は3億円負担となった。
プラスチックなど分別収集の拡大し、中間処理施設が建設された。国道246号バイパスは、暫定利用で市内
4カ所が平面交差化された。
議会は「 インターネット中継」となり、一般質問は2日から3日間に会期延長し、一般質問の質問回数の制
限は廃止された。
●平成19年(2007年)度 定数24 市議会議員選挙
大庭豊議員から宮脇俊彦氏への引継ぎをはかったが、長塚市長が候補者を擁立し多数激戦になったことと、
引継ぎの期間が短かったため、落選した。(次点)
長塚市長は、前市政の残事業の仕上げの協同病院への財政支援と、JAが支援を求めた50億円と道路・下
水道整備などの周辺整備(病院開業まで4.5億円)を、押し進めようとしている。
この間、中学校給食実現では「弁当方式」を撤回させ、理想は「自校方式」とした運動を行った。平成18年
度に大幅に国保税を引き上げ、伊勢原市は「県で一番高い保険税」となったが、国保会計は大幅な黒字に
なったことを明らかにし、平成20年度には国保税の引き下げを実現させた。ごみ焼却場から危険な灰溶融
炉設置を中止させ、建設費7億円、維持管理費2億3千万円/年のムダをなくした。
また20年9月、市長選挙に麻生捷二候補を擁立し「市予算の3%を使って、中学校給食の早期実現、6年生
までの医療費無料化、コミニティバスの運行、生活道路の改善」などを公約にして闘ったが、長塚市長の再選
をとめることはできなかった。
●平成23年(2011年)度 定数21 市議会議員選挙
再度3名の議員団確立に向け選挙戦にのぞむが、笠原、小林2名の議員団となった。(宮脇氏落選)
翌年2012年には市長選があり「財政危機」を強調した長塚市長は、財政立て直しを掲げた高山氏に破れた。
しかし、高山市長も同じように財源不足を強調、市民の要望を抑える市政となった。
党議員団は伊勢原市の1人当たりの市税負担額は県下16市中9番目で決して少なくないこと、市税収入が
10年前と比べ12億円も増額になっていること、基金積立が2年間で6.8億円も増えていること等を示し、財源
不足は市民の福祉を推進しないためのごまかしであることを明らかにし、財源を示す中で子育て支援の充実、
地域経済の活性化、暮らし応援など様々な施策を推進させた。また、行政文化センター駐車場有料化に対し、
議会で問点を明らかにするとともに、市民と共同し署名活動、監査請求などに取り組み、無料を継続させた。
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